謳羅山城

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  • しょざいち忠清北道清州市上党区米院面大新ギル(大新里)
  • ようやく謳羅山城は、米院面と北一面の境界にある海抜497mの謳羅山に築造された包谷式(谷を囲むように作る)石城で、朝鮮時代の地理志にも具に記録されている。

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謳羅山城は、米院面と北一面の境界にある海抜497mの謳羅山に築造された包谷式(谷を囲むように作る)石城で、朝鮮時代の地理志にも具に記録されている。


これらの記録によると、謳羅山城は、清州から東に約40里離れたところにあり、全長2,790尺、城内には2つの井戸がある。謳羅山は、別名“高麗山”“句麗山”“弓裔山”“九女山”とも呼ばれ、 現在は主に“九女山” と呼ばれている。


山城は、周囲約856mで不等辺方形の形をしている。城内で最も高い北端から両側に伸びる稜線は、南方の渓谷に向かって次第に低くなり、箕(み)のような形を成している。二重基盤に石塁が積み上げられているが、大部分の石塁は崩壊しており、その遺構が土塁のように残っている。


イティジェへと上る稜線の西北側の南端には現在まで石城壁が残っており、高さ7m、幅8m、厚さ6.3mの内外夾築城(内外の壁両面に石垣を積む)であった事が分かる。山城には、南の通水溝側の南門跡と北と西に小さな門跡があり、北の頂上部には見張り台があったと思われるが、完全に崩壊しており、城壁が稜線へと続く北・南・西側の角には、曲城(城門を外から囲んで築いた城壁)が設けられた。


城内の南側には、昔の寺跡に建てられた“句麗寺”という寺院があったが、1979年に鍾岩里に移された。周囲からは、新羅様式の土器や瓦の破片が多く発掘され、時折、百済様式の土器の破片、高麗初期の土器や瓦の破片も発見された。謳羅山城の地勢や地形を考慮して設けられた城門や見張り台、通水溝、出土遺物、或いは、1人の男と9人の娘の物語である“築城神話”などから推測すると、新羅が、娘臂城の百済或いは高句麗と戦うために前哨基地として築城した城であると思われ、三国の角逐の場として所属国も頻繁に変わっていたものと思われる。


また、後三国時代でも、戦略的要衝として軍隊が駐屯し、娘臂城の甄萱と戦闘を繰り広げ、高麗時代まで城郭としての機能が持続していたものと思われる。

How to come

清州 IC → 循環路(7.7km) → 忠清大路(6.1km) → 椒井薬水路(5.4km) → 米院椒井方面に(6.0km) → 到着

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