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国家指定文化財

国宝

龍頭寺址鉄幢竿

幢竿は寺の前に立てて、仏陀の威信と功徳を表し、正義具現を目的とする「幢」という旗をたてるためのものである。

二つの花崗岩の支柱と20個の鉄桶から成る、高さ13.1mの龍頭寺址鉄幢竿は、3番目の鉄桶に製作年度(高麗光宗13年-962年)と、高麗独自の年号の「峻豊」の文字が、浮き彫りされている貴重な遺物だ。

しかし、この幢竿が所在していた龍頭寺の規模などは分かっていない。

伝説によれば、まるで船が水面に浮かんでいるように見え、「舟成」とも呼ばれていた清州が、「大雨で流されないよう、帆柱を立てよ」という仏陀の顕示を受け、惠圓というお坊さんが、弟子のキイェジョンに龍頭寺境内に鉄幢竿を立てるよう命じて造られたという。

G癸酉銘全氏 阿弥陀仏三尊石像(国宝第106号)

癸酉銘全氏 阿弥陀仏三尊石像 (国宝第106号)

安心寺 靈山會掛佛幀

九龍山の西側のふもと、サドン里ジョルゴル村に位置した安心寺にある仏画で、毘廬殿の中の仏壇の前にある木製の箱に保管している。

この掛佛は上の一部分に少しの損傷があるが、全体的に保存状態が良い。
仏画の内容は釋迦如來佛を主尊に、その周りに佛・菩薩と弟子たちである教化聖衆と四天王の護法神らを左右対称に配置した靈山會相圖で、説法を聞くために集まって来た聴聞聖衆と地方佛が取り囲んでいる構図を実感の出るように表した。

主尊は螺髮の頭に高くて尖った肉髻があって中間にゲジュがあり、目・鼻・口と髭が装飾化されており、朝鮮中期の仏画手法を見せている。
仏画の下段には“順治九年 壬辰四月日”という黒書があり、朝孝宗3年(1652年)に制作されたことがわかる。

宝物

己丑銘阿弥陀如来 諸仏菩薩石像(宝物第367号)

己丑銘阿弥陀如来 諸仏菩薩石 像(宝物第367号)

弥勒菩薩半跏石像(宝物第368号)

弥勒菩薩半跏石像像 (宝物第368号)

純誠佐理4等功臣録券(宝物第716号)

純誠佐理4等功臣録券像 (宝物第716号)

雲泉洞出土銅鐘(宝物第1167号)

雲泉洞出土銅鐘像 (宝物第1167号)

上党山城(史蹟212号)

上党山城像 (史蹟212号)

安心寺 大雄殿

安心寺 大雄殿像
安心寺の主尊を祀った法堂で朝鮮中期の一般型木造瓦家である。新羅恵恭王11年(775年)に真表律師を重建して、その後朝鮮仁祖4年(1626年)に松庵大師が重建したと伝わっている。

現在ある建物は 1626年に重建されたものと推定されていて、軒の端に飾られたアムマクセ瓦に“康煕十日年壬子”銘文があって顯宗13年(1672年)に繁華した事実が分かり、その後にも何度かの重修を繰り返えして今日に至ったことが推定される。

3段の自然石でできた基壇の上に手入れされていない自然石を柱石にして、建物構造は正面3間、 側面 2間の多包式切妻建物で側面にも栱包があり、非常に異例的である。建物内部の天井には大雄殿を荘厳に見えるために作った派手なダッジプ(龕室欌)がある。

保閑斎 影幀

保閑斎 影幀
この影幀は朝鮮初期の学者であり世祖の登極を助けて輔弼(君主の政治を助けること)した領議政申叔舟の影幀である。申叔舟の字は泛翁、号は保閑斎、希賢堂、本貫は高霊で、世宗20年(1438年)に進士、生員になり、翌年に文科を3等で及第(合格)して様々な要職を務めながら世宗を助け、訓民正音(ハングル)を創製することの功が大きかった。

世祖が即位すると功臣になり右議政と左議政を経て領議政を務めたりもして経国大典と世宗實錄・睿宗實錄の編纂に参加し、東国通鑑・五礼儀を王命で編纂した。影幀は麻に描かれていて功臣図像式であり、文官の日常服に帽帯と足置きを具備して少し横に向いて座っている左側の姿を描いた椅像である。

像は麻に薄い墨汁で草像して色を塗った後、濃淡が調和された墨線で輪郭をはっきり描いた形態で画幅は比較的大きい方である。
胸背の模様は官服に刺繍をしていて、後世に多く見られる刺繍方形胸背とは違い、明の国の様式を従ったように見え、雲の下の牧丹と錦鶏を按排していて当時の服制から見て正二品職を現わしていると思われる。

影幀の右側の余白には申叔舟の死後75年にまた色を塗ったという記録があるが、現在の状態から見るとその後の補修はなかったようである。

桂山里 五層石塔

桂山里 五層石塔
皮盤嶺北側の麓の桂山里市場村にあるこの石塔は桂山里寺址に残っている唯一の石造物である。寺の跡はすべて廃墟になって田畑に変わり、5層石塔だけが中心部から昔の位置を守っている。

単層基壇と5層の塔身部は原型そのまま残っていて上輪部はすべてなくなっているが、全体的に保存状態が良い方である。各層の塔身は隅柱やテン柱が表現されていなくて、1層は 4枚の面石で成り立っているが 2層以上は 1枚の塔身石で成り立っている。

屋蓋石は 1・2層だけが2石、その他は1石で、屋蓋石の層支えは1・2層が 5段、3・4層が 4段、 5層が 3段で上に行くにつれて少なくなっているため安定感があり、転角が曲線に処理されず、落水面が短いのは塼塔様式には珍しい姿で鈍重な印象を与えている。

そして各層の屋蓋石上段には上の層の塔身石を支えるための1段のグェイム台があり、結球状の特色を表している。この塔で注目されることは基壇や塔身に、隅柱や撐柱が省略されて屋蓋石の反転がなく、落水面が短い様式などであり、このような造塔手法はこの地方的特色を見せている。

史蹟

上党山城(史蹟212号)
興徳寺址(史蹟第315号)

上党山城(史蹟212号)
上党山城という名称は、三国時代の百済の上党県から由来しているらしく、周りが4km、内部が54万7千坪の巨大な包谷式石山城である。

最初の正確な築城年代は分からないが、三国史記などにその記録が残っている。現在の上党山城は壬辰の乱が起った、宣祖29年(1596年)に築造し、肅宗(1716年)に改築されたものである。

現在三つの門(東門、西門、南門)と二つの暗門、三つの雉城、三つの水門が残っており、東門南門楼、東将台、(輔和亭)などが再建され、西将台(制勝堂)の跡も残っている。

新鳳洞百済古墳群(史蹟第319号)

興徳寺址 (史蹟第315号)

新鳳洞百済古墳群(史蹟第319号)

新鳳洞百済古墳群 (史蹟第319号)

新鳳洞百済古墳群(史蹟第319号)

新鳳洞百済古墳群 (史蹟第319号)

重要民俗資料

清州出土順天金氏衣服および簡札(重要民俗資料第109号)

清州出土順天金氏衣服および簡札 (重要民俗資料第109号)

清原求礼孫氏墓出土遺物(重要民俗資料第116号)

清原求礼孫氏墓出土遺物 (重要民俗資料第116号)

清原伝朴将軍出土遺物(重要民俗資料第117号)

清原伝朴将軍出土遺物 (重要民俗資料第117号)

中原金緯墓出土遺物(重要民俗資料第118号)

中原金緯墓出土遺物 (重要民俗資料第118号)

安東金氏墓出土遺物(重要民俗資料第217号)

安東金氏墓出土遺物 (重要民俗資料第217号)

柳桂和 家屋

柳桂和 家屋
柳桂和家屋は朝鮮高宗3年(1866年)に建てた韓屋である。

建物の構造は2間の大庁(家の中央にある広い板の間)を中心に左側に台所と向かい部屋を、右側に小部屋が付いた奥の間と離れ部屋、そして台所と穀間がある正面6間、側面3間のㄷの字形になった瓦家である母屋と板の間がついた2間の客間を中心に、左側に大庁(広い板の間)と穀間を右側に台所と部屋が正面6間、側面2間半のㄱの字形になった居間と向い合って配置し、全体的にㅁの字形模様で構成していて、母屋を居間より少し高く築造した。

垂木軒合閣屋根の瓦家で中門がないことが特徴である。現在は柳桂和さんが住んでいる。

朴光佑 墓所 出土遺物

朴光佑 墓所 出土遺物
朝鮮中宗の時代の文臣である畢斎朴光佑(1495~1545)の墓所を京畿道坡州郡條里面梧山里から清原郡南二面秀垈里に移葬する際に出た一括遺物である。棺槨の材料はイブキで内外二重棺で上が広くて下が狭い上広下侠の典型的な形態を取っており、ほとんど腐っていなくて完形である。

内棺には底の大きさと合わない板子が敷かれており、7つの穴を燃やして開けた七星板があって注目されている。

内棺の長さは250.5cm、幅69.6cm、外槨の長さは280cm、幅95cmである。遺体の足下から青銅の鈴が5個出てきたが、大きさは高さ2.3cm、直径2.6cmで表面には何の飾りもない。

白磁小壷は朝鮮時代に流行していた副葬明器とみられ、首が短い口縁部が特色で蓮華峰模様の取っ手がついた蓋である。

柳桂和 家屋

柳桂和 家屋
柳桂和家屋は朝鮮高宗3年(1866年)に建てた韓屋である。

建物の構造は2間の大庁(家の中央にある広い板の間)を中心に左側に台所と向かい部屋を、右側に小部屋が付いた奥の間と離れ部屋、そして台所と穀間がある正面6間、側面3間のㄷの字形になった瓦家である母屋と板の間がついた2間の客間を中心に、左側に大庁(広い板の間)と穀間を右側に台所と部屋が正面6間、側面2間半のㄱの字形になった居間と向い合って配置し、全体的にㅁの字形模様で構成していて、母屋を居間より少し高く築造した。

垂木軒合閣屋根の瓦家で中門がないことが特徴である。現在は柳桂和さんが住んでいる。

李恒煕 家屋

李恒煕 家屋
李恒煕家屋は朝鮮哲宗12年(1831年)に建てた韓屋である。

建物の構造は2間の大庁を中心に左側に縁側がある1間の向かい部屋と小部屋を、右側に縁側がある奥の間と離れ部屋、台所がある正面5間、側面3間のㄱの字形になった母屋とその前に大門がついている一の字形になった9間の穀間につづいて1間の大庁を中心に左側に縁側がある向かい部屋、そして客間と前板の間がある正面4間、側面2間の居間でできていて、現在の居間は30年余り前に造られたものである。

母屋は垂木軒合閣屋根の瓦家で、現在は李恒煕さん一家が住んでいる。