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地方文化財

有形文化財

忠清道兵馬節度使営門(有形文化財第15号)

忠清道兵馬節度使営門 (有形文化財第15号)

清原求礼孫氏墓出土遺物(重要民俗資料第116号)

清原求礼孫氏墓出土遺物 (重要民俗資料第116号)

菩薩寺石造二尊並立如来立像(有形文化財第24号)

菩薩寺石造二尊並立如来立像 (有形文化財第24号)

塔洞五層石塔(有形文化財第25号)

塔洞五層石塔 (有形文化財第25号)

清州郷校(有形文化財第39号)

清州郷校 (有形文化財第39号)

菩薩寺極楽宝殿(有形文化財第56号)

菩薩寺極楽宝 殿(有形文化財第56号)

菩薩寺五層石塔(有形文化財第65号)

菩薩寺五層石塔 (有形文化財第65号)

清州東軒(有形文化財第109号)

清州東軒 (有形文化財第109号)

望仙楼(有形文化財第110号)

望仙楼 (有形文化財第110号)

井下磨崖毘盧舎那仏坐像(有形文化財第113号)

井下磨崖毘盧舎那仏坐像 (有形文化財第113号)

塔洞洋館(有形文化財第133号)

塔洞洋館 (有形文化財第133号)

雲泉洞新羅寺蹟碑(有形文化財第134号)

雲泉洞新羅寺蹟碑 (有形文化財第134号)

趙憲戦場記蹟碑(有形文化財第136号)

趙憲戦場記蹟碑 (有形文化財第136号)

薪田洞古家(有形文化財第145号)

薪田洞古家 (有形文化財第145号)

聖公会聖堂(有形文化財第149号)

聖公会聖堂 (有形文化財第149号)

順治銘石仏立像(有形文化財第150号)

順治銘石仏立像 (有形文化財第150号)

韓氏始祖祭壇碑(有形文化財第169号)

韓氏始祖祭壇碑 (有形文化財第169号)

瑞気寺石像薬師如来坐像(有形文化財第174号)

瑞気寺石像薬師如来坐像 (有形文化財第174号)

訥斎江捜遺稿版木(有形文化財第177号)

訥斎江捜遺稿版木 (有形文化財第177号)

光国志慶録板木(有形文化財第164号)

光国志慶録板木 (有形文化財第164号)

朴薫 神道碑

朴薫 神道碑
朴薫 神道碑は彼の墓入口の道路沿いに建てられている朝鮮時代一般型の大きな石碑である。パクフン(朴薫 、1484~1540)は朝鮮前期の儒学者として弘文館校理増栄の息子である。恋山君10年(1504年)に司馬試に合格した後、多くの官職を経て、中宗14年(1519年)に賢良科に合格して承政院同副承旨などに服したが己卯士禍(1519年)の時災いにあい、17年間流配生活をして中宗 31年(1536年)に解放され、彼の外家(母の実家)のある所で余生を過ごした。

神道碑は英祖24年(1748年)に朴弼周が撰して、尹得和が書して、兪拓基が題篆して建てたが、後面には成運が書いた墓文を刻んだ。1957年に正面 1間、側面 1間ギョプジョマ、八作屋根の木造瓦家の碑閣を建立した。 碑の形態は方形の台石と八作屋根形の蓋石を取り揃えた一般形で、蓋石には瓦屋根の詳細樣式を精巧に刻んでいて、碑身と台石、蓋石すべてが良質の花崗岩で造成され、保存状態が良い。

英祖大王胎室 加封儀軌

英祖大王胎室 加封儀軌
英祖大王胎室加封儀軌は清原郡琅城面武城里にある朝鮮英祖の胎室を加封するときの経緯と過程または儀礼の順序などすべての関連事実を書いた筆写本である。

朝鮮時代には王家に赤ちゃんが生まれるとその子の無病長寿のために胎(へその緒や胎盤)を石室に安胎したが、特に王に即位すると胎室に威容を持たせるために、決まった儀礼と手順に従い、中央に、台石の上に球形の中童石と屋蓋石を載せて胎室を作り、周りには裳石を敷いて護石欄干で囲んだ。

儀軌によると英祖の胎は肅宗20年(1694年)9月26日に観象監の文に従って一等胎峰である忠清道清州牧山内一東面無雙里、今の武城里胎峰山卯坐酉向に落点されて翌年9月28日辰時に安泰された。

本来は王の即位直後、石造物に直してまた造成しなければならないが、英祖胎室はちょうど清州地方で起きた李麟佐の乱と度重なったかんばつによって果たすことができずに英祖5年(1729年)になってから禮曹の建議で胎封を石造物に造り直した。

この儀軌にはこの外にも日付別に詳しい造成経緯を書いており、関係した人と地方別に粉定された役軍、匠人、僧軍の人数と須要物資の内訳または胎室の各種石造物と胎室碑の形態及び大きさなど詳細内容を詳しく記録しており、韓国の胎室研究に貴重な資料である。

東華寺 石造毘廬舍那仏坐像

東華寺 石造毘廬舍那仏坐像
俗称 ”ナムスウォン寺”と呼ばれている東華寺の大雄殿の中に主尊として祀られている仏像で、光背を失っただけでほとんど完全な形に近い。高い台座の上に結跏趺坐な座像で、首が折れていたのを復元したが間違って復元してしまい仏頭が右側に少し歪んでいる。

螺髪の頭には低い肉髻があるがはっきりしていなくて、顔は摩滅されたうえに全身に金粉が塗られていて原型を確認するのが難しい。手印は摩滅ではっきりしてはいないが、右手を下にして左手を上にちゃんと合わせている点から智拳印を決めたことが分かって、それからこの仏像が毘廬舍那仏であると確認された。通肩の法衣は両肩から流れて胸の前で U字形を成しながら左右対称に処理されて膝を覆っていて衣紋は図式化されている。

仏像の台座は上台石の一部が割れているが完全な形態を維持していた。下台石より下は座板の下に入っているが床の一部を取り外して見ると方形の地台石と8角形の基台石が置かれている。基台石の 8面には眼象を置いてその中に獅子像を浮彫りした。 中台石は 8角で、正面には香炉を彫刻し、残り7面には合掌像、または降魔触地印、智拳印を決めた如来像など、それぞれ他の姿の仏菩薩像が配置されているが現在中台石は前後面が逆に置かれている.

上台石は円形で下の面に角形副椽、側面に仰蓮花紋が彫刻されている。この仏像の造成時期は全体的な彫刻手法から見て羅末麗初と推定される。実測値は仏像の高さ148cm、頭の高さ51cm、肩の高さ 91cm、肩幅70cm、胸幅 45cm、膝の高さ28cm、膝幅109cmで、台座は中台石の高さ31.5cm、上台石の高さ19cm、上台石の直径 117cmである。

申仲淹神道碑

申仲淹神道碑
この碑は朝鮮宣祖の時代の文臣であった申仲淹(1522~1604年)を称えるために建てたものである。申仲淹は早くに両親を亡くし継母と弟(妹)を誠と孝を持って手厚く仕え、 その孝行が広く知られた。

官途への道にあがって主簿、監察職にいる時は郡民を教化に導き、壬辰倭乱の時は軍糧米不足で困難が多いことを知り、自分の財産で軍糧米を調逹するなど国難対処に努力した。これに朝廷では僉知中樞府事を制守した。

彼が80歳になると朝廷はまた嘉善大夫同知中樞府事の官職を与え、後に左賛成に追贈された。神道碑は光海君1年(1609年)に沈喜寿が作って李山賚が字を書き、光海君11年(1619年)に立てた。

尹瓘影幀

尹瓘影幀
ユングァン(尹瓘)は高麗中期の名臣で字は同玄、諡号は文肅、本貫は波平である。高麗文宗の時代に科挙に及第(合格)して肅宗9年(1104年)に東北勉行営兵馬都統に任命され、女眞を征伐するのに失敗したが、睿宗2年(1107年)に女眞征伐の元帥になって東北界にいる女眞を征伐 し、9城を築いて鎭国功臣になった。

影幀は1910年頃に子孫によって製作されて正面3間、側面1間の切妻屋根の家の影堂を建立して奉安しており、武官像と文官像がそれぞれ1幅ずつ描かれている。

坡平尹氏の門中に伝えられている話によると、尹瓘の影幀は咸鏡北道北青郡にある万頼祠に奉安されていたものを1902年に模写してここに持って来たと言うが、正確な経緯は分かっていない。

その後、影堂の建物が崩れて影幀の姿が巫俗的な印象が濃いという意見があったため、1980年に影堂を修造し、影幀も学界の考証を経て新たに文官像を製作して前の武官像と一緒に奉安した。祭香は将軍の誕辰日である旧暦3月10日に奉行する。

鄭守忠影幀及び影幀重模記

鄭守忠影幀及び影幀重模記
鄭守忠(1401~1469年)は朝鮮初期の文臣で提の息子で、字は敬夫、諡号は文節、本貫は河東である。世宗32年(1450年)に式年文科試験に合格して成均司芸を経て行司勇を務めた後、世祖の王位簒奪を手伝って左翼功臣3等になり、後に僉知中樞院事を経て大司成、左賛成に至って奉朝賀になってから死んだ。

肖像画の原本は世祖1年(1455年)佐翼功臣の号を受けた時に描かれた功臣図像と考えられ、朝鮮時代の影幀の一般的な構図である左側面像の形式を見せている。

影幀は左顔八分面に黒色の紗帽と淡紅色の袍を着けて椅子に座った全身像で、衣服の外角線を角をなすように表現して、服のひだを簡略に線で処理して格式をいかそうと努力した跡が見える。

一方、この影幀と一緒に伝えられて来た影幀重模記は1冊の筆写本で、重模による様々な事項を記録して告由祝文まで記載している珍しい資料である。

申瀅浩古家

申瀅浩古家
申瀅浩古家は朝鮮高宗 18年 (1881年)に建てた韓屋である。本来は母屋(アンチェ)とサランチェ、ゴクガンチェ、トゥルアレチェ、マブチェなどがあったが、韓末にこの家に住んでいた申正植が義兵に宿食を提供したという理由で日兵が放火し、現在は母屋(アンチェ)だけが残っている。

母屋(アンチェ)の構造は2間のデチョン(家の中央にある広い板の間)を中心に左側には台所とトエが掛かった向こう部屋を、右側には台所とトエが掛かった奥の間と衣服の間がある正面 5間、側面 4間のㄱの形 になっていてホッチョマ合閣屋根の瓦家である。

飛中理 石造一光三尊仏像

飛中理 石造一光三尊仏像
内秀から椒井藥水に行く道路沿いにある飛中里の俗称 ”ソンドル道”にある一光三尊石仏である。 一つの光背の中に 3躯の仏像を一緒に浮き彫りにしたもので、現在この仏像は 4彫刻と破損されたものを復元して置いたが、本尊の胴と頭部が分離して右協恃菩薩像が落ちて離れたものを集めてつぎ合わせたが、左協恃菩薩像はまだ捜すことができない。

本尊仏は結跏趺坐した座像で、頭部と肩から胸部分までは脱落がひどいが、堂々として柔らかい彫刻手法を見せ、膝は太く表現され、膝の上で服の裾を垂らしており、百済扶余軍守里の石造如來坐像 の形態と非常に似ている。

手印は右手をあげ、二番目の指を曲げた施無畏印を現わしていて、左手は膝の上に載せる姿だが摩滅がひどくてよく見ることができない。法衣は右肩偏袒のようだが、肩と胸部分がひどく摩滅されて明らかではなく、膝下に見える衣紋は非常にやわらかく表現されている。膝を掛かって下りてきている裳懸座の下には三尊仏像が彫刻されていて、その左右にそれぞれ獅子像が一匹ずつ配置されているが摩滅がひどい。

頭光と身光は何重の丸い柄を波のように表現していて、周りには10 軀 の化仏が表現されている。右側の脇侍菩薩は顔に摩滅はあるが、古拙したほほ笑みが口元に見え、長い髪の毛と円筒状の体つき、 そして X字形の服模様などが 6世紀菩薩像に見られる特徴で、この仏像の造成時期を推定するのに重要な観点となっている。

安心寺 毘廬殿

安心寺 毘廬殿
安心寺の大雄殿の前の方にある建物で高い丘の上に西向きにある。この建物の創建年代は毘廬殿の中に掛けられていた木板の重修記によると、光海君5年(1623年)に草創されてその後歳月が2百年余り経って屋根と垂木が崩れ落ち、仏像が雨風に当たりそうになると多くの人々が一緒に憲宗8年(1842年)に修造したという事実が分かっているが、この重修記は1982年頃になくなってしまった。

自然石で積んだ方形の石段の上に自然石の礎石を置いて丸い柱を建てており、建物構造は正面3間、側面2間の多包式切妻屋根の家で、両側には風壁を付けて前面には井字の格子戸をつけた。そして全面の4つの柱には楷書体で書いた柱聯(柱掛け)が掛けられている。本来この建物は毘廬舍那仏を主尊として祀った毘廬殿だったが霊山殿または羅漢殿とも呼ばれ、現在は(霊山殿>という扁額が掛けられている。

現在この建物の中には釈迦世尊の16代弟子像である木造の十六羅漢像が奉安されている。この建物の特徴は切妻式の建物なのに左右の側面にコンポ(木造建築で軒を支えるために柱の上に置く部材)を設置した点であり、これは八作屋根の大雄殿を修造する時に切妻屋根に変形しながらコンポがそのまま残る構造になったのを毘廬殿建築時に模倣したものと見られる。

1989年に瓦をあげて丹青を新しくして基壇築台も積みなおした。

止善亭

止善亭
止善亭は朝鮮光海君2年(1610年)に止善オミョンリプ(呉名立、1563~1633)が建てた亭子として呉名立の号を取って止善亭とした。

今の亭子は高宗16年(1879年)に重建して、1932年に補修した建物で正面 3間、側面 2間、ホッチョマ八作屋根の木造瓦家で内部は通間に2段で床を敷いて、中には尤庵 宋詩烈が書いた ”忠孝一生 臥此江”という扁額が掛かっていて、外には遂庵 権尚夏が書いた “止善亭”という扁額をつけた。

墨井影堂

墨井影堂
墨井影堂は朝鮮純祖30年(1830年)に世祖の即位に功を立てて左翼功臣1等になり、高霊府院君に封ざれた領議政文忠公保閑斎申叔舟(1417~1474年)の影幀を奉安した影堂で毎年旧暦3月15日と9月15日に祭祀を行っている。

影幀は英祖25年(1749年)に加徳面仁次里の九峰影堂にある原本(宝物第613号)を模写した官服の全身交椅坐像であり、横113cm、縦225cmの設彩絹本で、海左丁範祖が書いた画像讃がある。

現在の影堂は1984年に重建して1989年に補修した建物で正面3間、側面2間の二重垂木軒の切妻屋根の木造瓦家で、内部は板の間に一対の門をつけて左右に退間(物置部屋)を置いて前板の間を置き、“墨井影堂”という扁額を掛けて庭の前に三門を建てて塀を積んだ。

文義郷校

文義郷校
文義郷校は朝鮮時代、文義地方にあった官学機関で本来は文義県の西側1里の地点である今の養性山の下にあったのを、文義県を建てる時の朝鮮光海君1年(1609年)に郷校を県から南側に3里離れた箕山里へ移し、肅宗9年(1683年)には県令李彦維が、地が平坦ではないという理由でまた西側に2里離れた養成山の下である今の位置に移した。

崔鳴吉 神道碑

崔鳴吉 神道碑
崔鳴吉 (1586~1647)は仁祖の時の文臣で字は子謙、號は遅川、諡號は文忠、本貫は全州で永興府使起南の息子である。

宣祖38年(1605年)に文科に合格して承文院を経て典籍になり、光海君が母后を幽閉して政治がますます難しくなるので、金流・李貴などと志を合わせて仁祖を迎立して、その功で参議に1等功臣になって完城君に封ざれた。

丁卯胡乱の時は主和論を主張して清の国に降伏する歴史の非運に遭うが、この時右議政になり、上では王を慰めて下では乱れた政事を整理して、国内外が少しずつ安定するようにし、左議政を経て領議政に至ってから亡くなった。

性理学と文章にも優れていて、一家を成しただけでなく字においては董基昌体で有名で、 著書には遅川集19冊、経書記疑、丙子封事などがある。神道碑は墓所の前にあり、肅宗28年(1702年)に建てられて、1979年に碑閣を新築した。

月裡寺 大雄殿

月裡寺 大雄殿
月裡寺大雄殿はこのお寺の入口にある事蹟碑によると、朝鮮孝宗8年(1657年)に明玄堂元学大師が隣近所にあった新興寺を移して造ったことが記録されており、この時期に移されたと見られ、軒先のアムマクセ瓦に“雍正庚戌”陽刻文字があり、英祖 6年(1730年)に一度重修したと見られる。

そして建築様式から見ても朝鮮中期に建立されたものと見られ、正面3間、側面3間の八作屋根建物で多包式である。自然石で高く積んだ基壇の上に自然石のジョ礎石を使用していて、隅柱が平柱よりずっと太くて高い。

前面の柱の間はすべて井字門をつけ、斗栱は稠密に配置して、サルミの端は鋭く曲がっている。

軒は重軒で4ヶ所の角には活柱を立てて空に向かって飛ぶように、反転したチュニョの端を支えていて、八作屋根建物からわかる韓国建築の美しさを見せている。柱の上には昌枋と平枋を置いて斗栱を支えていて、斗栱の配置は御間に 2つ、夾間に1つずつ整然と配置した。

文山館

文山館
文山館は朝鮮時代の文義面(文義県)の客舍である。客舎というのは、高麗と朝鮮時代に各地域にあった館舍で朝鮮時代にはここに殿牌を安置して一日と十五日に君主がいる宮殿に向かって敬礼する意識を挙行しただけでなく、中央から下った使臣の宿としても使用された。

建物構造は屋根が少し高い政堂が中央にあって、その左右に翼室を置いて、全面に中門、 外門、側面に無廊などが付属され、政堂は煙瓦を敷いて左・右翼室はオンドルにするのが一般的である。

文山館は木造瓦家の建物で正面10間、側面3間の2翼工の家で、政堂は正面3間、側面3間、右翼室は正面4間、側面3間、左翼室は正面3間、側面3間である。床は、政堂はオンドル、左・右翼室は韓国式の井の字形に敷いた板間になっている。

この建物の正確な創建年代は推定できないが、ただ昔の文義邑誌に、顯宗7年(1666年)に県令李鳴夏が移して建てたという記録があり、屋根の瓦に“雍正六年戊申四月”と刻まれた字から見て朝鮮英祖4年(1728年)に一度重修されたことが分かる。

そして1979年には大清ダムが完工されてから文山館が水沒地域になってしまったため、文義郷校の横に移したが、また1997年に文義文化財団地の現在の位置に移して昔の姿に復元した。

Monument

鴨脚樹(記念物第5号)

鴨脚樹 (記念物第5号)

中央公園内にある、樹齢(が)約900年になる銀杏の木である。

東国輿地勝覧によれば、高麗末、恭譲王の時に、蜜告で牢獄に閉じ込められた李賢輔などの忠臣たちが大水に遭ったが、この木に登って災いを逃れ、これを聞いた王は、彼らが罪のないことを空が証明してくれたといい、釈放したというエピソードのある、由緒ある木である。

東莱府使宋象賢忠烈祠(記念物第16号)

東莱府使宋象賢忠烈祠 (記念物第16号)

表忠祠(記念物第17号)

表忠祠(記念物第17号)

蓮潭公墓所(記念物第20号)

蓮潭公墓所 (記念物第20号)

斥和碑(記念物第23号

斥和碑 (記念物第23号)

胖巷書院(記念物第42号)

胖巷書院 (記念物第42号)

宋象賢墓所および神道碑(記念物第66号)

宋象賢墓所および神道碑 (記念物第66号)

方井(記念物第84号)

方井 (記念物第84号)

務農亭址(記念物第85号)

務農亭址 (記念物第85号)

佳景洞遺蹟(記念物第120号)

佳景洞遺蹟 (記念物第120号)

父母山城(記念物第121号)

父母山城 (記念物第121号)

拱北里ハリギリ

拱北里ハリギリ
このハリギリは高さ8.5m、胸の高さのまわり4.5mに至る老巨樹で、木の樹齢が約700年にもなることが伝わっているがはっきりとは分からない。

ハリギリは韓国全国の野山で自生し、落葉する喬木として生長速度は早い方である。

幼い幹に大きくて堅いとげが多く、昔から亡霊を追い払う木という俗説もあるが古い幹にはとげがないのが特徴である。

丹斎影堂及び墓所

丹斎影堂及び墓所
丹斎影堂は日帝時代に独立志士であり史学者であり言論人であった丹斎シンチェホ(申采浩、1880~1936) 先生を称えるために1978年に影幀を奉安して建てた影堂で墓所のすぐ前にある。

影幀は1981年に韓光一が描いた全身交椅坐像で横70cm、縦110cmの設彩絹本である。影堂は正面3間、側面1間重軒切妻屋根の木造瓦家で、内部は通間板の間に分閤門をつけて前板間を置き、[丹斎影閣]という扁額を掛け、祠堂の前には [正気門]と名付けた三門を建てて周りは塀で囲んでいる。

墓所は先生が東方無政府主義者連盟活動をしてる時、逮捕され服役中の1936年 2月 21日に旅順の 監獄で殉節(忠節や貞節を守るために死ぬ)したことによって先生が幼い頃に暮した昔の家の跡地に安葬した所で、 廟庭には韓竜雲、呉世昌、申伯雨などが立てた墓表と1972年に立てた寺跡碑がある。

清原 山徳里 胎室

清原 山徳里 胎室
胎室は王家の胎(へその緒や胎盤など)を埋めた石室で胎封とも言う。朝鮮時代には王孫の赤ちゃんが生まれると胎室都監を臨時に設置して安胎使にするように、明堂を探して胎を埋めるようにした。

ここは胎室があるので胎封という山の名前を持っており、中に埋めた胎函は半球形の蓋石の円筒形で、石灰岩でできた石函と蓋石を別に造成してテハンアリを奉安して封墳を造成した。

逮華堂祠

逮華堂祠
逮華堂祠は朝鮮肅宗27年(1701年)に松軒盧継元(1532~1586)、菊軒盧後元(1533~1592)、 持平梅軒盧従元(1535~1583)、竹軒盧一元(1539~1611)など4兄弟の位牌を奉安して設立した書院である。

増補文献備考の記録によると西厓柳成竜(1542~1607)が4兄弟の特別な兄弟愛をみて宣祖に話すと宣祖が直接“逮華堂”という御筆を書いてその家に掛けさせて堂号になり、後に彼らの祠堂である逮華堂祠になった。

しかし壬辰倭乱の時に家と扁額が焼失して肅宗27年(1701年)にまた建てて英祖37年(1761年)に西菴盧徳元(1549~1629)を趨向して、院生17人をおいた祠院であった。しかし高宗8年(1871年)に祠院毁撤令によって撤廃されたが、1967年に南一面新松理クンムェ村に建てて毎年旧暦3月と9月の仲丁日に祭祀を行っている。

現在の書院は1967年に重建して1988年に補修した建物で、正面3間、側面1間半の二重垂木軒の八作屋根の木造瓦家で、内部は板の間に分閤門をつけて前板の間を置いた。

祠堂の中には1967年に権容稷が作って李範圭が書いた“逮華堂重建記”を掛けて、外には“逮華堂祠”という扁額を掛けて庭の前に左右の回廊の屋根よりも門柱を高くした正門を建て塀で囲んだ。

そして祠堂の横には肅宗45年(1719年)に李宇謙が作って成泳が書いて建てた逮華堂事蹟碑が碑閣の中に保存されている。

韓蘭墓所及び神道碑

韓蘭墓所及び神道碑
高麗の開国功臣である太尉ハンラン(韓蘭、853~916) 功を安葬した墓所と彼の偉業を称える神道碑である。

元々の墓所は朝鮮孝宗10年(1659年)に盧峯によって破損され、子孫たちが肅宗16年(1690年)に封墳を修復したと伝えられている。墓所は元々の姿とは違うが、高麗時代の墓碑と床石などが現存して孝宗時代の文人石と竜馬石が保存されている。

朴光佑墓所

朴光佑墓所
朴光佑(1495~1545)は朝鮮中宗の時代の文臣で、字は国耳、号は畢斎、本貫は尚州である。 中宗20年(1525年)に式年文科試を首席合格して様々な官職を務めながら韓国の歴代の最大地理書である東国与地勝覧を編纂して仁宗1年(1545年)に司諌知製教を歴任しながら乙巳士禍で論争して逮捕され、死を迎えた。

後に栗谷の上書で官職が回復し、松泉書院に配享された。墓所中央の封墳を中心に、封墳のすぐ前に位牌碑と床石があって左側には肅宗13年(1687年)宋時烈が撰した墓表がある。

これ以外にも近来に造成した事蹟碑、長明燈と本来のものである文官石、童子石、望柱石などがある。この墓は1977年に京畿道坡州から移葬したもので朝鮮時代の一般的な墓制に従っている。

英祖大王 胎室遺跡

英祖大王 胎室遺跡
朝鮮英祖の胎室として [忠清道邑誌]に清州東側20里にあると記録されているが、当時に胎室があった清州牧山内一東面無双里は今の武城里である。

この胎室は朝鮮肅宗21年(1695年)に装胎したヨンジョ(英祖、1694~1776)の胎を英祖5年(1729年)に王の胎室 規模と構造に合うように封築したものである。胎室の形態は公州にある肅宗の胎室を模倣して造成したもので中央に2段になった正方形の台石の上に卵模様の胎室石と八角のガッチォマドルを置き、周囲に8個の長台石を八角に置いて八角の角には隅珠石を立てた。8面の中央には四角の童子石を立てた後、六角の長台石を横に載せ、石欄干で囲んでいる。

胎室前には亀趺の上に碑身を立て、これを上段に彫刻した胎室碑を立てたが碑身の前には“主上殿下胎室”と書かれていて、裏には“雍正七年十月十四日建”と書かれている。

三世忠孝門

三世忠孝門
三世忠孝門は朝鮮スクジョン(肅宗) 43年(1719)に女眞族と戦って戦死したギョンフンブサ(慶興府事)、チュンジョンゴン(忠貞公)、トエスホン(退修軒)、ナサジョン(羅嗣宗,1440~1491)の忠節を称えて立てた忠臣閣と、仁祖16年(1638)にナウンゴル(羅云傑, 1456~1493)と彼の息子ビン(濱, 1473~1495)、リン(潾, 1475~1495) 兄弟の孝誠(心を尽くして両親を孝行すること)を称えて立てた三孝閣を合わせて呼ぶ 2つの旌閭閣である。

羅嗣宗は成宗22年(1491年)に女眞族が騎兵5千人を従えてビョンバンに攻め寄せた時、我軍50人余りを導いて戦ったが戦死した。彼の息子云傑は女眞征伐に白衣従軍したが、父親の敵を討つことができなかったことを悲憤して父親の 3回忌を終えた日に自決した。云傑の息子濱、潾兄弟も孝誠が深く、何度か女眞征伐に出たが志を果たすことができず、父親の3回忌を終えた日にやはり自ら命を絶ち、 3世代が皆忌日が同じという忠孝の先例を残した。

羅嗣宗は肅宗43年(1717年)に女眞征伐の功で兵曹判書に追贈されて忠貞という諡号が下され、濱と潾は肅宗 33年(1707年)に判書に追贈された。現在村入口に東向きに建てられているこの三世忠孝門 は忠臣閣と三孝閣が並んで残っている。

孫秉煕先生 遺墟地

孫秉煕先生 遺墟地
朝鮮哲宗12年(1861) 4月 8日に義菴ソン・ビョンヒ(義菴 遺墟地, 1861~1922) 先生が出生して育った家である。ソン・ビョンヒ先生はかつて東学に入門し、1894年東学革命の時、忠清道と慶尚道で 10万の民衆を導いて館軍と戦った。

その後日本を経て上海へ亡命して1897年には東学の三世教主になり、1904年進歩会を組織した。1907年に帰国し、天道教という名前を付けて教勢拡張に力を入れたが、庚戌國恥以後、普成専門学校と普成中学校を天道教名義で引き受け、人材養成に力をつくし、1919年に 3.1運動の時は民族代表 33人の筆頭として朝鮮独立を宣言した。

無形文化財

Cheongjunongak

清州農楽(無形文化財第1号)

Baecheopjang Hong, Jong-Jin

輩貼匠 洪鍾鎮(無形文化財第7号)

Dancheongjang Gwon Hyeon-Gyu

丹青匠 権賢圭(無形文化財第9号)

清原 神仙酒

清原 神仙酒
神仙酒は清原郡地域で唯一、伝統民族酒に指定されているお酒である。
昔から水が良いことで有名な米院地域で生産する神仙酒は咸陽朴氏家に18代目、約 400年余りの間受け継がれている家釀酒で、伝えるところによると、忠清道都事朴崇尚がこの村に帰った後このお酒を醸す秘法が伝わったといい、神仙酒という名は新羅時代に崔致遠が、この村の前の神仙峰に亭子を建ててこのお酒を楽しんだことが由来されているという。

神仙酒の製造は補腎強壮用の生薬制をもち米、麹などとともに醗酵させて清酒または蒸溜酒を作るのだが、服用すると能弁、白髪、延年益寿(長生きすること)などに效能があったといい、独特な香りがあって後遺症がない。また飲んだ後、宿酔(二日酔い)にならず、頭が清らかになり、飲みやすい。

文化財資料

酒城講堂(文化財資料第17号)

酒城講堂(文化財資料第17号)

 巨叱大山 烽燧址(文化財資料第26号)

巨叱大山 烽燧址(文化財資料第26号)