壌城山城

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  • しょざいち忠清北道清州市上党区文義面懐南文義路(塩峙里)
  • ようやく旧文義県、現文義面に所在する米川里村の西にある海抜292mの養性山の頂上部を囲む、土と石で築かれた鉢巻式(山の頂上を取り囲むように築く)の山城である。朝鮮時代の地理志によると、養性山は文義から東に2里の所にある主山で、県令によって春と秋に祭祀が執り行われ、干ばつの時はこの山にある丸池で祈雨祭が行われていたと記録されている。また、山の名前は、朝鮮後期に“壌城山”から“養性山”へと改名された。

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旧文義県、現文義面に所在する米川里村の西にある海抜292mの養性山の頂上部を囲む、土と石で築かれた鉢巻式(山の頂上を取り囲むように築く)の山城である。朝鮮時代の地理志によると、養性山は文義から東に2里の所にある主山で、県令によって春と秋に祭祀が執り行われ、干ばつの時はこの山にある丸池で祈雨祭が行われていたと記録されている。また、山の名前は、朝鮮後期に“壌城山”から“養性山”へと改名された。文義は、元来、百済時代には一牟山郡、新羅時代には燕山郡に所属していたため、“ 一牟山城”“燕山”と呼ばれた。一牟山城は、新羅慈悲王17年(474年)に築城されたと、「三国史記」に記録されている。その後、景徳王16年(757年)に一牟山郡が燕山郡へと改名され、高麗太祖8年(925年)に征西大将軍の庾黔弼を派遣し、後百済の燕山鎮を攻撃して将軍吉奐を討ち取り、高麗太祖15年(932年)6月に一牟山城を征伐・打破するなど、多くの戦闘が繰り広げられた。朝鮮宣祖25年(1592年)の文禄の役当時も、ここで戦闘が行われた。この山城に関しては、朝鮮時代の各地理志や邑誌に具に記録されている。これらの記録によると、その名称は、“竟山石城”、“壌城山城”、“燕山城”、或いは“壌城”と記されており、周囲は192尺、干ばつや大雨でも枯渇したり溢れたりすることのない大きな池が存在したことが、比較的細かく紹介されている。山城は、3つの峰と1つの渓谷を抱えるように築造されており、周囲約845.5m、山の頂上と谷を囲むように作った、鉢巻形の包谷式山城である。城は、険しい山勢をそのまま利用して築かれており、本来、険しい山峰部から若干下の部分を削平し、帯で囲むように土塁を築いて外側の勾配をより険しく作り、削平された城壁内の5~20m幅の平地を通路として利用できるようにした。北東側の峰には、台石や礎石及び多くの瓦の破片が散在していたことから将台(将軍の指揮台)跡と推測され、南側の稜線には南門跡があり、南門跡の20数m下には土で築かれた二重の堡塁が設置され、侵入してきた敵を場外で遮断できるように施してある。城内の各所で、新羅や百済様式の土器の欠片や高麗時代の磁器、瓦の欠片が発見されたことから、高麗時代まで使用されていた山城と見られ、三国時代に築城された後、度重なる戦闘から幾度となく所属国が変わったものと思われる。

How to come

清州 IC → 並木道(1.3km) → 京釜高速道路(8.7km) → 唐津盈德高速道路(9.5km) → 到着

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